ブログ

近頃の政党の発信に感じる違和感の正体

以前からの維新の会支持者には、近頃の政党の発信、とりわけ選挙中の発信に違和感を持っていた方も多いかと思います。
最近の維新の方向性に対して、残念ながら不本意な部分がありますので、その違和感の正体を総括しておきたい気持ちがありました。わたしなりに整理してみたいと思います。

この発信方法の違いにつながるのは、歴然とした政治思想の違いです。
主に、リベラルとリバタリアンということになるでしょう。
この場合のリベラルは、相手が保守になる日本的なリベラルではなくて、政治思想で言うリベラルになります。

政治思想にはいくつかの切り口がありますが、たとえば、個人に対する共同体というものだったり、自由に対する平等だったり、個人の所有を積極的に認めるのか認めないのかだったりします。その切り口によって、いくつかの政治思想の特徴とされ、分類されるわけですが、現代社会のベースになる思想は「リベラル」と言うことになると思います。

リベラルという考え方を広げて、一世を風靡したのは、ジョン・ロールズという人ですが、このリベラルは、日本的リベラルのいう左翼思想とは違って、現代の自由主義社会では世界的に中心となる思想になっています。

どういうものかというと、

すべての人は、他の人々の同様の自由と両立する限り、
基本的自由への平等な権利を持つ

これが最も有名な第一原則。

加えて、第一原則よりも優先されることはないという条件のもとに第二原則があり、

社会的・経済的な不平等は、最も恵まれない人々の状況を改善する限りでのみ認められるという格差原理
すべての人に開かれた、公正な機会均等のもとにあるという機会均等原理

このようなものです。

現代社会では、極めて現実的で、ふつうに感じられるものですよね?
そして、ノージックによるリバタリアニズムや、マイケル・サンデルによるコミュニタリアニズムなど、ロールズのリベラルへの批判的姿勢から生まれた思想があります。

「配るなら取るな」という表現は、維新の会で政調会にいた方が、良く口にされましたが、ノージックの言うリバタリアニズムの典型的な表現です。

リバタリアンに対する、有名な批判を少しだけ取り上げます。

マイケル・サンデルは、リバタリアニズム、リバタリアンに対する批判として、ビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンを例に、才能に対しての偶然性や時代背景を言う反論を提示して、自己所有に対する考え方そのものに対する疑問を表しました。
ビルゲイツやマイケルジョーダンは、もちろん努力はしたでしょうが、ある特定分野の才能と言う、天賦のものが時代にたまたま合っていた。それが莫大な財産を生み出したことは、否定できないでしょう。
その才能を正当と考えるのであれば、真逆である障害を持って生まれた方々に対するものも仕方ないのだと。極端な方に進めば、そう考えられることになる。
また、売春や自殺幇助などを例に出し、リバタニアリズムの考え方は、徹底すると極端な結果にたどり着く可能性を孕んでいることを主張しました。

政治学者のデビット・ミラーは、医療保険に対する考え方に対し、具体的に批判しています。
リバタリアンは、医療保険も民間で代替できると主張しますが、最終的に残るメインの医療保険は、どうやっても政府のものになるのだと。
それは、規模だったり、仲裁サービスの必要性によるコストなどによりますが、政府の医療サービス以上に条件の良い、安全で大規模な医療保険は作れないからです。つまり、自己決定で自由に選択するのであれば、大部分の方が、最終的には政府の保険を選択する結果になるということ。
社会保障は民間で完全には代替できない。民間の競争においては、仲裁と言うコストが発生するからです。

リバタリアニズムでいうと、所有は個人の権利であり、政府がこれを取り上げるのは強盗と同じだという主張になります。そして、原初の所有が公平であるなら、その後の所有はすべて正当化されるというものです。格差を容認するものとも言えます。
そして、最初から集めないことを善とするのだから、再分配には、基本的には否定的である。と考えられます。

対して、リベラルでいうと、個人の稼いだものは一時的に自分の手元にあるが、その富はそれぞれの努力や機会の平等のもとに公平にあるべきであり、公平に分配が行われるべきである。つまり、再分配による公平性の担保が問われることになります。

このように、発信方法の違いと言えば小さく感じるけれども、実は政治思想の違いに由来するものだから、けっこうヤバいくらいの違いなんですよね。

リベラリストとは平等の代表で、リバタリアンとは自由の代表と言われます。

現代社会は、自由と平等、公平、民主的、というようなことは、社会の前提として当然の話なので、当然の中でどれに重きを置くのかと言う問題であり、どっちか一方だけという話ではありません。

自由と平等。
これが完全に両立することは無いんですね。
たとえば、自由を突き詰めれば、弱肉強食の社会になります。自衛のための銃を持つのは認められるでしょうし、夜警国家と言われる最小限の小さな政府を目指すなら、再分配は行われないので平等は成立しない。

逆に、平等を突き詰めれば、政府が完全に関与することになりますから、自由や自己決定の一部は失われる。

橋下さんの有名なツイートを出します。

これは、再分配に視点が置かれた表現であり、さらにいえば、教育無償化を肯定し、橋下さんが良く使われる表現に「応能負担」がありますが、これも、再分配を肯定する表現ですから、平等に重きを置いた発信なのです。

あくまで、このツイートが出された時点ですが、橋下さんの視点は、税金の再分配の側にあって、税金は払うのは当然だが、使われ方が重要。
小さな政府ではなく、だれもが平等にチャンスがあり、効率的で無駄のない行政機構を目指していたのではないか、ということになります。

昔からの維新の会の支持者は、知らず知らずに平等の方に比重が大きかったので、機会の平等と言う単語を良く使いましたよね。だから、教育費無償化を進めてたわけです。
リベラルと言われる政治思想に親和的な支持者の方が多かったと想像できます。

「小さな政府」という単語に、昔からの支持者は、なんとなく拒否反応をしめしました。教育費用無償化は、小さな政府に反します。

小さな政府を目指す人は、リバタリアンは、配るなら最初から取るな。
こう主張します。これは税金の徴収に主要な着眼がある証左で、もっとわかりやすく言うと、自己所有に関する考え方の違いです。

「私のものを政府が取り上げるのは強盗と同じ」
自分の稼いだ利益は、すべて自分のものである。だから、使い道はわたしが考えるのが当然。そう言う主張です。

選挙期間中のコピーだと、

わたしの手取りから、これだけ高額なお金が取られている
これを減らしましょう

こうなります。

自由に重きを置いているか、平等に重きを置いているかで、そして、個人の自己所得に対する考え方の違いによって、税金を取る取られるという表現や、再分配に対する考え方に違いが発生して、発信が大きく違ってくるというお話でした。

そういえば、なんとかファースト、最近はやりですね。
急に勢力を拡大してきた参政党も日本人ファーストと言ってたし、都議選は都民ファーストが勝ちました。トランプさんもファーストですね。

このファーストと言うのは、あきらかに自由や自己決定を重んじる思想です。
いま、はやりなのは、大衆にウケるのは、自由に向かう方向性の思想なんでしょうか。

政府不信が、自己決定に対する要求を強めている可能性も高いですね。

自由に対する考え方は、長い歴史を見ると行ったり来たりになるようです。ファーストがしばらく続くと、また公平性や平等に有権者の目が戻るようになるのか。今後の政局も目が離せません。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


PAGE TOP