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維新の会のガバナンスを再考する

ガバナンスに対する発信は、自身が思ってたこととルールが違うことを「間違ってる」と言っての批判がほとんどですが、あるないではなく、間違ってるという意味での使い方には違和感があります。
トップをやめさせる方法がある、リーダーに絶対的な信頼があるなどなら、ものごとを議論ではなくトップダウンで決めることも、ガバナンスのひとつの形だと思っています。

トラブルが頻出する前の維新の会のガバナンスは、トップダウンの意思決定であり、それが間違いだったとは思いません。むしろ、今でもそれの方が良いのではないかとさえ思っています。
特に、このところは、変に下の方で何人も関わって、あーでもないこーでもない、ってやることから問題が起こっているのではないかと思います。自民党みたいに県連に決めさせるとか、そういうのが変な結果につながってるんじゃないですか。

政党に対する考え方の差になるのでしょうけども、政党とは狭くは特定の人々の願いをかなえるための団体であると思います。だから、広い意味では公益でも、狭くは、ある限定的な目的のための集団だということです。
人が集まって目的のためにパワーを持つのが本来の政党の目的です。人が集まりにくい要因としての批判であるなら意味がありますが、メンバー全員の納得感のために、ガバナンスがどこまでも熟議と民主的であるべきだというのは、意思決定の速度や質を毀損し、一貫性を欠いたり、競争力を弱めて、政党運営のコストになってしまうのではないでしょうか。

国民民主の支持率が上がっていますが、国民民主は、明らかに、以前の維新の会のようなトップダウンの意思決定がなされている組織ですよね。支持率には、そういうことは関係ないのですよ。

会社組織を例に出して話す方が多くなったので、あえてそのようにしますが、いまの支持率の低下は、株主目線や消費者目線ではなく、社員中心の思考に基づいての行動が積み重なって、会社の看板が汚れてしまったからです。
看板を磨くことを良しとせず、社員の待遇改善ばかりを議論しようとした。その結果だと思っています。

会社とは誰のものなのか。株主か社員か消費者か。

そもそも政党は、会社組織とは全く異なります。

社員であれば、給料が保証されて、生活費を稼ぐために所属する人でしょう。
理想をかなえるためにいる方もいらっしゃるでしょうが、主に生活のためだという方がほとんどのはずです。

実際には政党は、中小企業の社長の集まりのようなものです。橋下さんは、選挙に出るのは「投資」とおっしゃっていましたね。
維新の会では、選挙に出るお金も自前なので自己責任なのです。失敗すれば倒産です。

政党からは、生活費には使えないお金しかもらえない。地方議員候補は全く活動費がない。
わたしも、国政の支部長になったつい最近まで、10年以上政党からはいっさい支援を受けずに、すべて自腹で選挙を戦ってきました。
ほぼボランティアのメンバーがいて、それが会社というのは、ちょっと意味がわからない。
そうした集団が会社組織だというのは、たとえが稚拙ですし、当選している現職だけが中心で、現職だけが政党だと考えているからだとしか思えないです。

政党のガバナンスに対して、批判的に「中世」という単語もよく使われました。
一時期、反維新の方々が、維新の会のトップダウンの意思決定、橋下さんや松井さんのトップダウンですべての物事が決まることを、中世のようだと例えて批判していました。

中世のヨーロッパ世界は、キリスト教の価値観に支配された世界であったわけですが、ローマ教皇をトップとした教会組織が支配した時代です。この教会組織が、現代の官僚組織の元になりました。
皇帝は教皇と並びたっていましたが、カノッサの屈辱が象徴的な出来事だったように、実際には大衆が価値観の基準としているキリスト教の元に教皇の方が優位でした。教皇はバイブルを解釈する最終権限者で、絶対的な立場でした。

それが、中世の終わりを迎えて、教皇が2人いる事態になってしまった。
その矛盾の解消のために「公会議」という議会が招集されて、みんなで話し合ったわけです。
そして、この公会議が、教皇に代わり、意思決定のトップになるはずだった。

非常事態で、イレギュラーな会議が招集され、意思決定する。
近頃国会で出ている「緊急事態条項」の本質である緊急権のルーツもここにあるわけですが、いわゆる新たなガバナンスを作る必要が生じたわけです。それまでは、トップが決めていたので、問題が起こらなかった。「一つの頭(かしら)」だったから。
それが複数の頭になってしまったから、意思決定の仕方を決めなければいけなくなった。
まさに、いまの維新の会は、その時の公会議と同様の状態に見えます。ガバナンスをしっかり見直さなければいけなくなった(と言ってる方が多い)状態です。

そして、中世の終わりの公会議の話に戻りますが、公会議では、2人になった教皇を1人にしようとして、さらに1人出てきて3人になるという、どうしようもない結果になってしまいました。
ちゃんちゃん。
ローマ教皇が亡くなったそうで、またコンクラーヴェが行われるんでしょうけども、ここまで、そういうニュースで思い出した話でした。

もう一つこの流れで話すと、維新の会には、以前はバイブルがあり、それに基づいて教皇が意思決定するという体制でした。
しかし、教皇がいなくなると、ついでにバイブルもかすんでしまい、他所から来た方々の持ち込んだものを元にしていってしまうという。そういう状態に見えます。最近の政策は、理念の軸がないので、世論に流され続けているように見えます。
公会議はあくまでバイブル(理念)の存在が前提で、解釈の最高権限者が誰かを議論していたのですから、それよりもずっと状況は複雑になってしまっている。

会社組織と違うという話をしてきましたが、維新の会には、あくまでバイブル、理念、旗が必要だと思っております。
宗教という批判がありますが、政党組織は、理念や信じるものを元に集まる、信じる軸を持つような、そういう方が向いているのではないかなと。少なくとも、会社組織よりはフィットするように思います。

さて、そろそろおしまいにしますが、先日の今の世論に対するブログでは、わかりやすく「チェンジ」という単語を使いましたが、パラダイムシフトというのが正しいでしょう。
いま、時代に必要なのはパラダイムシフトで、アメリカでトランプさんがやろうとしていることがまさにそうなんだと思います。
バイブルに戻るということが、いまの維新の会にとってのパラダイムシフトなのかもしれません。

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